【合同会社K plus 創世記】 Vol.12 ~2000年の眠りを経て花を咲かせた古代蓮の如く~ 岩手県一関平泉地域篇 PART 3
平泉で最期を迎えたと伝えられている源義経と弁慶の物語は数多くの伝説や文学作品に描かれており、日本の歴史上、最も有名な主従関係の一例であるとAIが語ってくれました。
そこで、AIにツッコミを入れてみました。
「では、最も有名だとされる主従関係の他の例は誰と誰ですか?」
AI曰く…
楠木正成と後醍醐天皇
足利尊氏と高師直
織田信長と豊臣秀吉
黒田官兵衛と豊臣秀吉
豊臣秀吉と石田三成
徳川家康と井伊直政
真田幸村と豊臣秀頼
毛利元就と吉川元春・小早川隆景
だそうです。
この方々の関係は、やはり大河ドラマで取り扱われている多いような気がします。日本人は主従関係が好きなのでしょうか?しかし、あまりにも戦国時代に偏りすぎていますよね。そこで、現代ではどうか?と、さらにツッコミを入れてみました。
すると答えは、
日本の職場では、従来から上司と部下の関係に「主従的な要素」が含まれると考えられる場合があり、特に、年功序列や終身雇用の制度の影響で、上司(主)と部下(従)の役割分担が強調されることがあります。しかし、現代ではこれが徐々にフラットな組織構造へと変化してきています。今後の主従関係は、ロボットと人間、AIと人間にシフトしていくでしょう。
昭和の時代のSF小説に出てきたような世界が、まさに待ち受けているのかもしれません。
閑話休題
源義経は、源氏の棟梁である源義朝の子として生まれたが、幼少期に父を失い、京都の鞍馬寺で育てられた。一方、弁慶は比叡山で修行を積んだ後、戦う僧兵(武蔵坊)として知られるようになり、この二人が出会ったのは京都の五条大橋。伝説によると、弁慶は千本の刀を集めるという誓いを立て、剣豪たちに勝負を挑んでいた中で、最後の千本目の刀を手に入れるべく挑んだ相手が源義経。この戦いで弁慶は義経に敗北し、義経の卓越した武芸や才覚に心服し、敗北を潔く認め、その場で義経に忠誠を誓った…。
これがかの有名な「五条大橋の戦い」ですが、なぜ二人は平泉へ?
義経は源平合戦で多大な功績を挙げましたが、兄・源頼朝との対立が激化し、鎌倉から追われる身となりました。この時、頼った奥州藤原氏三代目当主の藤原秀衡(ひでひら)は義経を温かく迎え入れ保護。家臣の弁慶たちは平泉の地で平穏に暮らしたと言われています。
が、秀衡の死後、その後を継いだ秀衡の嫡男である泰衡(やすひら)は、鎌倉幕府の圧力を受けて義経を討つことを余儀なくされ、義経は自害。弁慶は義経を守るために奮闘し、矢を受けながらも最後まで立ったまま戦ったという逸話が残されています。
藤原清衡(きよひら)は、戦乱による混乱を収め、平和な社会を築くことを目指し、東北地方を統一して、奥州藤原氏の礎を築きました。その支配を強固なものにするため、政治・経済・文化の中心地として平泉を選びました。
その後、平泉は、泰衡が源頼朝に敗北し、奥州藤原氏が滅亡した1189年までの約100年間繁栄しました。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
この句は、1689年に松尾芭蕉が平泉を訪れて読んだ句です。
奥州藤原氏の滅亡からちょうど600年後だったのですね。当時の平泉がどのように荒れ果てていたのかが想像できます。
が、さらに322年後の2011年。平泉は、浄土思想を体現する建築物や庭園、遺跡群が評価されたことにより、フランス・パリで開催された第35回世界遺産委員会において、「平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群」(Hiraizumi – Temples, Gardens and Archaeological Sites Representing the Buddhist Pure Land)として正式にユネスコの世界遺産に登録されました。
是非とも中尊寺や毛越寺に訪れて、平泉の約1000年の歴史をこの地に立ってしみじみと感じてみてください。
早いもので、大きな災害が多かった2024年もあと数日となりました。
2025年が平穏な年になることを祈りつつ…。